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靴底鳴らして顔上げて

 

 靴の底が随分磨り減っているのに気付いたのは、ついさっき篠原(しのはら)くんと会った時。
 篠原くんはとにかく背が高いから。
 あたしは背伸びして、顔を上げて、ようやく彼の襟元に視線が届く。
 きっちりと糊の効いたライトブルーのワイシャツ上から、ネクタイをこれでもかというほどにカチカチに締め上げてある。
 苦しそうだな。思いながら。
 いつものように背伸びをして。
 靴底がぐにゃりと歪むのを感じた。
 彼から視線を逸らしてみると、案の定、かかとのゴムがぱっかりと外れていた。
「どうかしたんですか?」
 遥か彼方から聞こえる声に。
「んーん。何でもないよ」
 あたしは首がもげるんじゃないかってほどに顔を上げる。
「ならいいですけど」
 言った声は、いつもと同じひんやりとした音色を含んでいた。
 まあ、あたしになんか興味ないんだろうな。
 表情が見れない分、あたしにとってはその声色が彼の全て。
「で、何の話してたんだっけ」
 言ったところで、工場入り口の自動シャッターがしきりに上下していることに気付いた。
 通路にしきつめられた台車のせいで、すぐにセンサーに反応してしまうのだ。
 普段、営業の私物や納品前の品物は工場前の回転棚に収納してあるのだけど。荷物を整理していないとすぐに一杯になってしまって。仕方がないから、棚前の通路に積み上げる……。
 ただでさえ台車をうまく方向転換するのにやっとの幅しかない通路なのに。
 思いながら、できるだけシャッターから遠ざかるように台車を詰めていく。
 篠原くんは手伝うでもなく、そのまま坦々と言葉を続ける。
「昨日総務の西川さんから僕の名刺が届いたと報告があったんですけど、見つからないんですよ」
 ちゃんと探したのかな。
 思いながら、台車はひとまず後にして回転棚を回す。
 篠原くんの番号は6番から7番だ。
 棚がういんういん言いながら廻っている間に。
 あたしは台車を詰めてゆく。
 そんな間にもシャッターは上がったり下がったりを繰り返して。
 上がる度に、工場内の機械音がやかましく耳を塞いだ。
 棚が6番のところで止まる頃には、台車はきっちりと整列して。
 視線を棚の中へと移す。
 ……確かにみつからない。
 7番の棚にもやっぱり入っていなかった。
「探しとくよ」
「今必要なんですけど」
 顕のある声がすかさず返ってくる。
 ちょっとは自分でも探せばいいのに。思ったものの。
 篠原くんの棚は他の営業さんよりずっと物が少ないからこそ、ぱっと見で名刺がないことがわかってしまう。
 資材発注は西川さんの仕事なのになぁ。あたしにこんなこと頼まないで欲しい。
 念の為、他の営業さんの棚も虱潰しで探したけれど。
 やっぱり篠原くんの名刺は見当たらなかった。
「あ、ひょっとしたら」
 思いついて、あたしは台車をどかしてしゃがみこむ。
「篠原くん、小銭持ってる?」
「1円と5円と100円玉がありますけど」
「できるだけ硬いヤツ」
 篠原くんは相変わらず尖った声のまま、どうぞと100円を差し出した。
「何に使うんです?」
 回転棚の下扉は、大きなねじ3つでとめてある。
 丁度小銭ほどの溝が開いてるから、ねじるのには丁度いいんだ。
「ひょっとしたら、棚からこぼれてるかもしれないから。下の扉開けるの」
気が緩んで言ったその隙に、3つ目のねじがはずれる。
すぐによけたものの、そのまま勢い余って、棚扉が私の靴の上に被さった。
「痛ぁ……」
 とはいえ、中に鉄板が仕込んである――いわゆる安全靴を履いていたから、そんなにも痛くはなかったんだけど。
「大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫。それより、ほら、あったよ、名刺」
 振り返ると。
 すぐ傍に篠原くんの顔があった。
 相変わらず声はそっけなかったけれど。
 まっすぐに視線が合うのははじめてで。
 思わず篠原くんの顔をまじまじと見入ってしまった。
 少しだけ青ざめて、本当にあたしのことを心配してるんだっていうのが、すぐにわかる表情。
「ありがとうございます」
 言いながら、篠原くんの顔が遠ざかる。
 また見えなくなったけれど。
 どうしてか、今までの几帳面なだけの人というイメージはすっかり消え失せていた。
 100円玉で扉のねじを止めて。
 相変わらず篠原くんは手伝ってはくれなかったけれど、下扉が元通りになると手を差し伸べて立たせてくれた。
「急いでるんじゃなかったの?」
「だけど、僕のせいで靴、壊れたみたいですし」
「確かに、篠原くんのせいだけどねえ」
 別に今の扉が落ちたからじゃないんだけどな。
 心の中で小さく付け足して。
「台車元に戻すの手伝ってよ」
 言いながら思った。
 入社当初から履き古した安全靴は元の白色を全く思わせないほどに、灰色に染まっているけれど。
 靴底も半分とれているけれど。
 そんなことを気にするより、これからは、もっともっと背伸びして、篠原くんの表情をきっちりと読み取ってやろうって。
 そんなあたしにはお構い無しに、篠原くんは慣れない手つきで台車をあらぬ方向へ持っていってしまう。
 自動シャッターが開く。
 騒がしい機械の音が、なんだかとても静かに思えた。

 

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